こんにちは。
キャリアコンサルタント&英語学習アドバイザーの新垣亜希です。
はじめましての方も、何回かブログに遊びに来てくださる方にも、改めまして、自己紹介をさせていただきますね。
少し長いので(20代から遡るし 笑)数回に記事を分けます。
さまざまな仕事で経験を広げた20代
今でこそ「キャリア支援」という仕事をしている私ですが、自分自身の20代を振り返ると、「こんな仕事に就きたい!」という強い気持ちはありませんでした。
漠然とした想いは
英語関係の仕事ができればいいな〜
くらい(英語は好きだったので)。
そして、次から次へと新しい職にチャレンジしました。
短大卒業後、見聞を広げようと県内の大手書店に2年ほど勤務。
その後、周りからは「畑違いじゃないの?」と言われた、伝統工芸の世界に飛び込んでしまいます。
一冊の本にあった『我が国で誇れる染織は、京都の友禅と沖縄の紅型(びんがた)』という文を読んで、感動を受けてしまったんですね。
伝統工芸の仕事の厳しさ

スミソニアン博物館で展示されていた紅型を見たときは鳥肌が立ちました
正直、当時の私の認識は
かなり甘かったと思っています。
今は紅型工房にはクーラーも設置されているそうですが、私が働いていた工房は織物の乾燥を防ぐため自然風で涼むスタイル(泣)。
それでも自分が染めた物が仕上がるのを見るのは嬉しかったですね。
ただ1日8時間ほぼ同じ姿勢。身体を壊しかねないなと思い始めました。多分、熱中症にはなったかなと。でも、そういうことも乗り越えないと琉球王朝から続いている伝統工芸の仕事はできないんだろうと自分に言い聞かせていました。
そんな矢先、心のよりどころだったたった一人の先輩が先に退職してしまい、心に穴が空いてしまいました。そして私も後悔したくないと思い、退職しました。
洋書販売店で勤める
簡単に仕事を決めてしまった反省もあり、「やっぱり私の仕事は英語だ!」とシフトチェンジをし、英語学校で働きます。その後、ある方から誘われて洋書の販売店で働かせてもらうことに。
中学生の頃から漠然と憧れていた雑誌『ニューヨーカー』や 『ヴォーグ』などを、休憩時間に斜め読みできるのはすごく楽しかったし、外国人のお客様とのコミュニケーションも刺激になりました。
仕事をしながら基地内大学(メリーランド大学)に通う日々
そんなある日、地元の新聞に英会話サークルの小さな案内を見つけました。
多分、このサークルに入会していなかったら、私は長年の夢(=東京で働く)を掴むこともできなかっただろうし、今の仕事(=キャリアコンサルタント)にも就いていないと思います。人生わからないものですね(笑)。
サークルメンバーの一人から「沖縄県が、基地内大学の編入試験を実施するらしい。受けてみたら?」そう強く薦められました。
ものは試しで受けてみるかー(笑)
と軽い気持ちでトライ。
すると合格してしまったので「これは(落ちた人のことも考えると)入学しないともったいないな」と思い、大学に通うことを決めました。
当時の上司には推薦文も書いていただいたので、本当に感謝しています。
基地内大学(メリーランド大学)へ通う日々
仕事が終わった後、夕方から嘉手納基地へと車を飛ばし、週に2回(時には4回)2時間の夜間授業を、アメリカ人と共に受けるという忙しい生活が始まりました。
基地内大学には軍人さんだけではなく、その家族や軍属もいらっしゃって、彼ら&教授たちと話ができるのもとても楽しかったです。
授業の内容もとても新鮮でした。同期のメンバーはほぼ全員が社会人でしたが「大人になってからの学びはたまらないね」と何度も語ったくらいです。
ただ、やっぱりアメリカの大学なので、かなりレベルが高く(私は「アジア学」を専攻)、その面では苦労しましたね。
当たり前ですが「書く、読む、話す」はすべて英語。わからないことも先生に英語で尋ねないと意思疎通ができません(笑)。
インフォ→2019年現在、基地内大学(メリーランド大学)はほぼオンラインでの授業だそうです。うらやましい気もしますが、周りに高い建物もなく、芝生が美しい嘉手納基地の風景にはどこか癒しも感じていたので、当時の自分はオンラインは選ばなかったかも。
エッセイのクラスで3度、教授にほめられたのがとても嬉しい思い出で、酒に酔った米軍人に車をぶつけられ大破され、その後新車を買うはめになったのは悪い思い出です。^^;
【自己紹介2】「外資系NPOで働き、10年来の夢だった東京で働くけれど」に続く。